◇◆ サムハラ神社 / 加茂町中原 ◆◇織田信長の安土城が出来た年である天正9年(1581年)今の津山市加茂町中原にある日詰山に築かれた落合城に羽柴秀吉の家臣木下備中守宮部善祥が駐留していました。
落合城 http://www.hb.pei.jp/shiro/mimasaka/ochiai-jyo/
落合城にサムハラと神字で書かれた石碑がありました。
その石碑を拝み、その神字を紙などに写して身に付けた武者は矢や鉄砲の弾が当たらないということで熱心に拝まれており、さらには災厄除けとして拝まれていました。
その後本能寺の変で織田信長は世を去り、羽柴秀吉は豊臣秀吉となり太閤となり、さらには関ヶ原の戦いで徳川の天下となり江戸時代が1868年まで続きます。その300年間もサムハラの護符は地元の人々に信奉されていました。
そして江戸時代が終わった明治元年、サムハラの石碑の地元に田中富三郎が生まれます。 田中少年は地元の他の子どもと同じくサムハラを信奉していました。 そして青年となり徴兵で日清日露戦争に出征。 特に日露戦争ではロシア軍のトーチカでの機関銃攻撃による激戦で多くの犠牲者がある中、田中富三郎青年は無事に生還。 田中氏はこれは郷里で子供時代から信奉していたサムハラの護符を身に着けていたお陰だと信じました。
その後田中氏は大阪に出て事業で成功。 自分を育ててくれた郷里に恩を感じ郷里にある小学校の加茂西小学校に毎年のように寄付を行い、加茂西小学校には豊かな設備と蔵書が整うようになりました。
一方田中氏は自分がこのように事業で成功できたのもサムハラの護符のお陰で生き残れたからだと考えます。 そして昭和10年(1935年)彼の郷里の日詰山の金比羅神社近くにあって荒れていたサムハラの祠を復興。 さらに大阪市立売堀にサムハラ神社を建立します。 そして復興した郷里の祠は奥の院として大阪にある神社の発祥とします。 当時の日本は満州事変や日華事変に巻き込まれる中にあり、徴兵後に戦地に出征する若者が多くいました。 その若者たちは千人針という多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念した弾が当たらないというおまじないの布を持って出征しました。そういう時代の中で、織田信長の時代から矢よけ弾よけのサムハラの護符であるサムハラ神社のお守りも多くの出征兵士が身につけました。
その後太平洋戦争終戦。 しかしサムハラの護符は戦争が終わっても事故除け災難よけとして珍重されました。 そして田中富三郎氏は富三郎爺といわれる年になっても毎日大坂のサムハラ神社に出向き、郷里の加茂西小学校に寄付を続けました。 そして昭和42年(1967年)に数えの100歳で世を去りました。--- 津山瓦版より 引用 ---
◇◆ サムハラ神社の概要 ◆◇祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神であり、サムハラは三神の総称である。奥の院が美作加茂(岡山県津山市)にある。
1935年(昭和10年)に田中富三郎が出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市加茂町)にて旧い小さなほこらの荒廃を嘆き再興したのが本社の起源。 しかし翌年岡山県特高課から無許可神社で商品広告しているとして自主撤去を求められ、サムハラ信光会は11月27日に解消し、撤去を行った。 戦後ほこらは再建され、神社は大阪中之島の豊国神社隣接地に自費で建立。 1961年(昭和36年)に現在地へ移築遷宮された。 隣接地に大阪府警察の機動警ら隊がいる。--- ウィキペディアより 抜粋 ---
◇◆ 田中富三郎とは ◆◇田中富三郎。 1868年(明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。 万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営。 加茂西小学校に図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与される。 サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争と日露戦争で数々の危難をまぬがれ、サムハラ大神の霊徳を世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立。 神前扉材は伊勢神宮より賜った。 戦時中に兵士にお守りを贈る活動をしていたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に配布していた。 多くの要人にも贈呈をした。 90歳までは自転車を乗り回すことも平易だった。 97歳の時でも壮健であり自らを青年と称した。 「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱。 毎朝参拝を欠かしたことはなかった。 1967年(昭和42年)12月3日逝去。 享年100。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。--- ウィキペディアより 抜粋 ---