■■■ 近所にある ブラストオフ に・・・ とても怪しい ピストンの箱がありました♪♪ ■■■
外部はH鋼で出来てたので 鉄筋かと思いきや・・・◇◆ 公民館 ◆◇公民館(こうみんかん)とは、住民のために、実際生活に即する教育・学術・文化に関する各種の事業を行う教育施設のことである。
明治維新以後、資本主義の発達に伴って都市部でも農村部でも様々な歪が生じるようになった。このため、地方改良運動及び社会教育の実施を目的として様々な名称を持った公共施設が建設された。 旧来の村屋・行屋・若者宿に加えて、隣保館(りんぽかん)や労働福祉会館などの名称で呼ばれた施設がこれにあたる。 昭和期に入ると、「公民館」と呼ばれる施設も登場し、大正後期から引き続き行われてきた社会教育の導入、関東大震災後の国民精神作興運動、昭和恐慌下の教化総動員運動や農山漁村経済更生運動など教化活動への住民導入体制の強化に伴って、その円滑な実施のための施設の必要が唱えられ、学校施設を舞台とした全村学校運動や図書館施設を舞台とした図書館附帯施設論争などが行われた。
日本初の公民館
1923年(大正12年)、正力松太郎が警視庁を辞め、読売新聞の経営に乗り出した際、後藤新平が資金面で援助をした。 その後、正力松太郎はその恩返しとして、後藤新平の故郷である岩手県水沢町(現: 奥州市)に資金を寄贈した。岩手県水沢町が正力松太郎から寄贈された資金を使い、1941年(昭和16年)に建設したのが、「後藤新平記念公民館」である。 建設から5年後の1946年(昭和21年)には、「公民館」に改称した。 日本で公民館に類似する事業を行う施設は、第二次世界大戦前にもあったということができる。
なお、その後、岩手県水沢市には新しい公民館が建設され、「後藤伯記念公民館」に改称した。 裏手には後藤新平記念館がある。
現在ある公民館は戦前に文部省の成人教育課長であった松尾友雄が唱えた「社会教育館」構想を母胎として文部省の公民教育課長であった寺中作雄によって構想されたものが原型となっている。 1946年より日本の民主化政策に伴って各地に公民館設置が行われ、1949年の社会教育法制定によって法的に位置づけられた。 公民館制度は戦前からの地域施設設置運動と住民の参加システムを生かす形で住民の企画・運営への直接参加が行われるなど、地域における住民の学習権保障の場として評価されている。--- ウィキペディアより 抜粋 ---
ずっと昔・・・◇◆ スモン ◆◇スモン(SMON、subacute myelo-optico-neuropathyの略称、別名:亜急性脊髄視神経症)とは、整腸剤キノホルム(クリオキノール、5-クロロ-7-ヨード-8-キノリノール)による薬害。 1955年頃より発生し、1967~1968年頃に多量発生した。
当初は原因不明の風土病とされ、発症者が多かった土地の名を取って釧路病と言われたり戸田奇病と言われたりした。 ウイルス原因説も出たが、現在ではキノホルムが原因と判明している。
スモンは、キノホルム投与により激しい腹痛が起こり、2~3週間後に下肢の痺れ、脱力、歩行困難などの症状が現れる。 舌に緑色毛状苔が生え、便が緑色になる(緑色物質はキノホルムと鉄の化合物であることが明らかにされている)。 視力障害が起きることもある。合併症としては白内障、高血圧症などが起きやすい。患者は女性が多い。 1970年に日本ではキノホルムの製造販売および使用が停止となり、新たな患者の発生はない。--- ウィキペディアより 抜粋 ---
古い新聞1枚で・・・◇◆ 現・株式会社トマト銀行 ◆◇1931年(昭和6年)11月9日 - 倉敷市に倉敷無尽を設立。
1941年(昭和16年)3月 - 興国無尽、別所無尽を吸収合併し、三和無尽と商号変更。本店を岡山市に移す。
1943年(昭和18年)9月 - 中国無尽より営業権を譲り受ける。
1951年(昭和26年)10月 - 相互銀行法の施行により相互銀行に転換、三和相互銀行と商号変更。
1969年(昭和44年)4月 - 山陽相互銀行と商号変更。
1989年(平成元年)4月 - 普通銀行へ転換し、トマト銀行と商号変更。--- ウィキペディアより 抜粋 ---