日本では岩塩としての資源がなく、固まった塩資源は採れない。 また、年間降水量も世界平均の2倍であることから日照時間が比較的長い瀬戸内地方や能登半島など、一部地域以外は塩田に不向きである。 このため、塩を作るには、もっぱら海水を煮詰めて作られる。 これは、天日干しに比べて、燃料や道具などが必要になるためコストがかかり、大規模な製塩には向かない方法である。 そのため自給率は食用塩が85%であるが、工業用を含めると全消費量の85%を輸入に頼っている。何はともあれ・・・
海水から製塩するには、直接海水を煮詰めて食塩を得るより、一度、濃度の高い塩水を作ってから煮詰めたほうが効率が良い。 この濃い塩水を「鹹水(かんすい)」と言い、この作業を「採鹹(さいかん)」、また煮詰める作業を「煎熬(せんごう)」という。
古代の日本の製塩法は、文献や民俗資料から推測されている。 古墳時代までは、『万葉集』に「藻塩焼く(もじおやく)」「玉藻刈る(たまもかる)」などと枕詞にあるように、海岸に打ち上げられたホンダワラなどの海草が天日で乾燥されて表面に析出した塩の結晶を、甕(かめ)に蓄えた海水で洗い出し、塩分を海水のほうに移す作業を何回も繰り返すことにより鹹水を得るというのが一説だが、また、打ち上げられた海草を集めて焼き、その灰を海水に溶いて塩分や海草のヨードなどの養分を溶かし出し、灰を布で濾し出して鹹水を得るという説もある。 海水を煮詰める工程において専用に用いられた土器は、製塩土器と呼ばれている。 沿岸各地の遺跡、遺物埋抱地で見つかっている。 この製法は中国地方では弥生時代中期頃に、岡山県の児島半島付近で始まったといわれている。 遺跡は、岡山県下では足守川や旭川の下流域、さらには邑久平野へと広がっている。
その後、万葉時代頃から、揚浜式塩田などの塩田法による製塩に移行していった。 江戸時代の江戸塩職人は「壷焼塩」と呼ばれる塩を作っていた。 これは、石臼で挽いた粗塩を素焼きの壺に入れ釜で二昼夜以上高温で焼いて作り上げるが、非常に高価で貴重であることから、黒船で来日したマシュー・ペリーをもてなす宴会二の膳に出された。
揚浜式製塩法は入浜式製塩法、1950年代には枝条架(しじょうか)式とも呼ばれる流下式製塩法、1970年代にはイオン交換膜製塩法へと変化していった。 このような海水からの製塩法では、副産物として豆腐の原料となるにがりができる。
塩の製造販売の自由化以降は日本各地で流下式といった過去に行われていた製法が復刻され、水分を瞬間的に蒸発させる加熱噴霧といった新しい製法で作られる塩も流通している。--- ウィキペディアより 抜粋 ---