今も昔も・・・■■■ 応仁の乱(播磨・備前・美作) ■■■播磨・備前・美作は元は赤松氏領だった所を宗全・山名教之・山名政清ら山名一族が嘉吉の乱で奪い取った経緯があり、再興を目指す赤松の遺臣達にとって山名氏との衝突は避けられなかった。 長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、政則は家臣の浦上則宗と共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。 宗全からは敵視され文正の政変で失脚したが程無く復帰、応仁の乱では在京して則宗と共に西軍と戦った。
播磨3ヶ国では宗全を始めとする山名一族は軍勢を引き連れて上洛したため、好機と捉えた宇野政秀ら赤松氏家臣団は3ヶ国の奪還に動き出した。 乱勃発直後の応仁元年5月に政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。 この間、政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。 また、乱における活躍で政則は東軍から3ヶ国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。
文明5年に宗全と勝元が死去したことをきっかけに両軍は和睦に動き、文明6年に細川氏と山名氏は単独で和睦を結び戦争から離脱した。 政則は和睦に反対したが、文明9年の終戦で3ヶ国守護と侍所頭人の地位を保証され赤松氏の再興を果たし、側近の則宗も侍所所司代として赤松氏の重臣に成り上がった。 しかし、山名氏は和睦で失った3ヶ国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ政豊は播磨を伺い、政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった。--- ウィキペディアより 抜粋 ---